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令和3年は「聖徳太子1400年忌」――過小評価? 過大評価? 最新研究でわかってきた人物像

正木 晃正木 晃

2021/01/21

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『唐本御影』

存在すら否定された謎の多いヒーロー

今年は聖徳太子1400年忌にあたる。

いまさら言うまでもなく、聖徳太子はあまりにも有名な人物である。日本人で「聖徳太子なんて知らない!」という人を見出すのが難しいくらいだが、その実像となると、わからないことがとても多い。

かつては、一部の歴史学者や宗教学者から、「非実在説」が主張されたこともあった。この主張は、「のちに聖徳太子という名称を冠せられることになった厩戸王は実在したが、数々の業績を上げ、信仰の対象とされてきた聖徳太子は実在しなかった。『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在」というものである。

たしかに、聖徳太子という名称は、奈良時代になって、初めて使われている。初出は、751年に成立した漢詩集の『懐風藻』である。

それまでは本名で呼ばれていた。その本名も、複数あるから、厄介だ。『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)、『日本書紀』では豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく)や豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)などと記述されている。

聖徳太子といえば、1958(昭和33)年から1984(昭和59)年に発行された「C1万円券」が、その肖像と伝えられる画像を使ったことから、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」と呼ばれていた。


C一万円券/昭和33年~昭和61(86)年1月まで使われた一万円札

この肖像は、聖徳太子を描いた最古の作例という「唐本御影(とうほんみえい)」から採られたものだが、実は聖徳太子の肖像であるという確証はない。陰影法など、画風の分析から、中国で製作されたという説もある。

血統的には蘇我氏の血が濃い。父の用明天皇の母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫娘、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の母も同じく蘇我稲目の別の孫娘という関係である。ちなみに、用明天皇の父は欽明天皇、穴穂部間人皇女の父も同じく欽明天皇だから、聖徳太子の父母は異母の兄妹婚によって生まれたことになる。

要するに、父が同じでも、母が違えば、婚姻できたのである。この種のことは、古代王朝ではどこでも、血の純粋性が重視されていたから、特異な話ではない。現に、平安京を建設した桓武天皇は、自分の三人の息子(平城天皇・嵯峨天皇・淳仁天皇)に、自分の三人の娘を、妻としてあたえている。

聖徳太子は実は天皇だったという説もある。論拠は、隋の使者が天皇に謁見したときの様子を記す『隋書』「倭国伝」の記述「倭王 姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩雞彌(倭王、姓はあめ、字はたりしひこ、おおきみと号す)」である。また、「王妻號雞彌 後宮有女六七百人」、つまり雞彌という名の妻がいて、後宮には600から700人の女性たちがいるとも記されている。素直に読めば、隋の使者が男王と謁見したと解釈できる。

女性の推古天皇に、隋からの使者を謁見させるのはいかがなものか、という理由から、聖徳太子を身代わりに立てたという説もあるが、事実関係を含め、真相は不明である。

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最新研究で見えてきた聖徳太子の足跡

日本史上、仏教経典の講義にまつわる最古の記録は、『日本書紀』の推古天皇一四年(六〇六)の、聖徳太子が法華経と勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたという記事である。また、聖徳太子が推古天皇二三年(六一五)に、法華経の注釈書にあたる『法華義疏』をあらわしたと伝えられる。

ただし、聖徳太子の仏教に対する理解がはたしてどの程度の次元だったのかをめぐっては、さまざまな説があり、いまだ定説はない。

『法華義疏』にしても、太子が監修して、専門的な知識をもつ僧侶たちに書かせたという説もあれば、仮に太子自身が書いたとしても、梁の法雲(四七六~五二九)によって書かれた注釈書の『法華義記』と70%が同じ文章なので、著作にはあたいしないという説もある。

この問題については、最新の研究成果が明らかにされたので、ご紹介したい。

最新の研究成果とは、駒澤大学仏教学部教授の石井公成先生が上梓された『聖徳太子 実像と伝説の間』(春秋社)である。この本は、従来の文献批判という手法に加えて、コンピュータ分析による語法解析や著者判定など、最新の科学的な手法をも利用して、聖徳太子にまつわる資料を研究した結果を網羅していて、現時点では最も信頼度が高い。


『聖徳太子 実像と伝説の間』(春秋社刊) 定価 2200円+税 ※品切れ・重版未定

石井先生が特に注目しているのは、『日本書紀』などに使われている漢文の解析である。すなわち、正統な漢文なのか、それとも「変格漢文」とよばれる非正規の漢文なのか、をめぐる研究に他ならない。つまり、使われている漢文のレベルで、書き手の文化レベルが推測でき、ひいて本当は誰が書いたのか、も判別できるというわけである。

詳しいことはご自分で読んでいただくとして、ここでは聖徳太子と『法華義疏』だけに焦点を絞って、石井先生が得た結論を以下にあげる。

三教義疏は、七世紀初めの長安や洛陽の一流の学僧の注釈と比較すれば、時代遅れの古い注釈を基本とし、思考力は非常にすぐれているものの仏教の素養が十分でない人が書いた、素人くさい表現が目立つ、変格漢文の注釈ということになる。特に、『法華義疏』と『勝鬘経義疏』はそう言える。ただ、自問自答を粘り強く展開している部分が見られ、時に独自のすぐれた解釈が含まれているので、七世紀前半の日本で書かれたとすると、画期的な文献と言える。

なお、御物本の『法華義疏』については、筆写したのは太子自身ではなく、書の名人であって仏教に詳しくない儒教系の臣下である可能性が高い。

このようにして、石井先生は、一部の歴史学者が宗教学者の間で主張されている「非実在説」をほぼ完璧に否定し、歴史上に確固たる足跡を残した人物として、聖徳太子の実像を究明している。

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この記事を書いた人

宗教学者

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。

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